アレクサンドリアは、紀元前332年に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって建設された都市です。アレクサンドロスは「アメン神の生まれ変わり」として認められ、エジプト王に即位します。大王の死後、部下のプトレマイオス1世が後を継ぎ、アレクサンドリアは、その後335年間にわたってプトレマイオス王朝時代のエジプトの首都としての役割を果たし、エジプトの貿易の中心地として栄えていきます。湾口にあったファロス島には、世界七不思議の一つであるファロス灯台が建てられ、その高さは130m、光は56キロ先まで確認する事が出来たと言われています。現在東港となっている湾は、当時大港と呼ばれ、湾内にはアンティロドス島(ロドス島に対抗すると言う意味)という島があったと記録されています。また、海岸からは、ポセイドンの神殿があった事から、ポセイディウムと名付けられた岬が突き出し、その先端にティモネイオン(=小さな隠れ家)があったとされています。ここは、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスに敗れたアントニウスが、隠遁生活をしていた場所だそうです。しかし、4世紀頃に東地中海地方に地震が頻発し、365年7月21日に発生した地震では、壊滅的な被害を蒙ったとされています。1308年に発生した地震では、ファロス灯台が完全に倒壊しました。これら度重なる地震により、地盤が沈降し、大港にあったアンティロドス島やポセイディウムは水中に没してしまいました。ローマ帝国滅亡後、エジプトはアラブの支配を受ける事になり、次第にその役割を失っていき、人々の記憶から忘れられていったのでした。ファロス灯台の跡地には、カイト・ベイという要塞が構築され、当時の面影は全く失われていました。
 話は変わって現代。以前より、アレクサンドリアの港の海底から、遺跡の断片などが発見されていました。そこに何かがあることは判っていましたが、水質汚染による混濁と、そのエリアが軍施設近辺である事から許可が下りず、長らくその調査が行われずにいました。1992年より、フランス人のフランク・ゴッディオが発掘プロジェクトを発足し、調査が始まりました。
 調査が進むと、次々に新しい発見がもたらされました。スフィンクス像や女神像、プトレマイオス王朝時代の王の像や、オクタウィアヌスを始めとするローマ皇帝の像、沢山のアンフォラの壷(*)、紀元前4世紀頃の沈没船など、貴重な発見が相次ぎました。これらの調査から、次第に古代アレクサンドリアの港内の様子が明らかになってきました。また、カイト・ベイ付近の海底からは、ファロス灯台の一部と見られる石柱なども発見されました。これらの調査で海底から見つかった物のうち、重要なものは引き上げられ、グレコ・ローマン博物館に展示してあるそうですが、その他の遺跡については、現在もアレクサンドリアの沖の海底に残されています。2001年からは、この地域での潜水が許可されるようになり、我々一般観光客も直にその目で遺跡を見、触れるようになりました。2001年10月に、その場所で撮影した写真をお見せいたします。

(*) アンフォラの壷=食料などを入れるのに使用されていた、取っ手のついた壷

頭部が欠落したスフィンクス

窪みのある石は、石臼だそうです

ファロス灯台の一部だそうです

石柱と土台部分

四隅に位置合わせの為の穴

台座から転げ落ちたスフィンクス
向こう側にももう一体のスフィンクスがある

神に供物を捧げる台?

戦時中の飛行機のすぐ傍に石柱の台座とアンフォラの壷が

これは前4世紀の沈没船の一部か?

湾内で見つけたアンフォラの壷


おまけ


アレクサンドリアのダイビング・サービス
「アレクサンドラ・ダイブ」
中央で羽根を広げているのはイシス女神




アレクサンドリアの街並み


カイト・ベイ要塞
現在は海洋生物博物館別館



アブル・アバス・モスク
アレクサンドラ・ダイブはココのすぐそば



海岸道路の夜景