ピラミッドは、現在に至っても、何の目的で造られたのか、良くわかっていません。通常言われる、ファラオの墓という考えは、紀元前5世紀に、ギリシャのヘロドトスが記した「歴史」の中で、土地の古老から聞いた話として、ファラオの墓であると書かれている事がその根拠なのです。現存している古代エジプトの記録には、一切その利用目的に関する記述はありません。古代エジプトでは、ピラミッドを「メル」と呼んでいましたが、これは昇天の場を意味する事であることから、王の死後の何らかの儀式が関係している事は間違いありません。ギザの3大ピラミッドに訪れて、中を見学してみると判りますが、ルクソールの王家の谷の墳墓には所狭しと描かれている壁画や象形文字が、ピラミッド内部には一切描かれていないのです(観光客の落書きは書かれていますが(^^) )。第5王朝のウナス王以降、ピラミッド内部にも文字が書かれるようになり、「ピラミッド・テキスト」と呼ばれていますが、ファラオの復活再生のための呪文、神への賛辞などが並べられているだけです。完全なミイラも発見されていません。足の骨など、部分的なものは見つかった例もありますが、年代的に新しいと考えられるものが多く、決定的な証拠は得られていません。それが墓泥棒の仕業としても、クフ王のピラミッドなどは、爆薬を仕掛けて中に入らなければならなかった部屋にも、ミイラどころか装飾品の一つもありませんでした。しかも、第3王朝セケムケトのピラミッドのように、完全に無盗掘で、石棺には封印が原型のまま残されていたにも関わらず、中にはなにも入っていなかったと言う例もあります。また、スネフェル王のように一人で4基ものピラミッドを建設した王もいて、更に謎を深めています。
それでは、カイロ近郊の有名なピラミッドを年代順に紹介していきましょう。

サッカラの階段ピラミッド (ジェセル王)

カイロ郊外のサッカラにあるピラミッドで、第3王朝のジェセル王のものと言われていて、建築を命じられたのがイムヘテプという人物であった事が知られています。古代エジプトの最古のピラミッドで、その後のピラミッドの形が、どのようにして形作られていったのかを知るのに、大変重要な手がかりを残しています。最初このピラミッドは、高さ8mのマスタバ墳(四角い形に土やレンガを盛った墓)として造られました。この部分は、構成されている石の大きさが、上部のものに比べて小さく、よく識別する事が出来ます。次にイムヘテプは、このマスタバを覆う形で、4段のマスタバに造り替えます。その後さらに拡張され、現在の6段の「ピラミッド」になったのです。付近にはピラミッドへ続くシャフトなどがあります。ピラミッドの中央部の地下には、花崗岩で囲まれた玄室が見つかっており、そこからミイラの断片が発見されています。恐らく、ジェセル王のミイラだろうと言われていましたが、炭素年代測定で、ジェセル王の年代とは異なる値が出たりして、確実にそうだとも言えない状態です。このピラミッドの隣には、ほとんど崩れかけた第5王朝ウナス王のピラミッドがあります。
入場料20LE、カメラ無料(2001年10月現在)


メイドゥムの崩れピラミッド (スネフェル王)

カイロから南におよそ80kmのメイドゥムにある、第4王朝スネフェル王の建設したピラミッドです。先王のフニ王が建設に着手し、スネフェル王が完成させたと言う説もあります。初の正4角錐の真正ピラミッドであったことが知られています。その傾斜角は51度52分であったと推測され、ほぼクフ王のピラミッドと同程度の傾斜角でした。後に周囲が崩れ、現在では中央部分が塔のような形で残っているだけです。この塔のような部分は、真正ピラミッドになる前の、8段の階段ピラミッドの部分で、これを埋めるようにして、真正ピラミッドが造られたようです。中には1本の通路と玄室が発見されていて、木製の棺の断片が発見されています。このピラミッドの東側と南側に、建設に使用されたと思われる斜面の跡が発見されていて、ピラミッドの建造方法を解明する上で重要な手がかりになると思われます。




ダハシュールの赤ピラミッド (スネフェル王)

カイロ郊外のダハシュールにある、スネフェル王建設のピラミッドです。赤っぽい石材を利用して建設されているところから、「赤ピラミッド」と呼ばれています。傾斜角度が43度36分ということで、ギザのピラミッドよりも緩やかです。この角度は、砂を上から落とした時に出来る盛り上がりの角度と似ており、安定感のある感じがします。入り口は、北側の高さ30m程の所にあり、中には3つの部屋が確認されています。中からは、頭蓋骨や胸骨、脊椎骨などのミイラの断片が発見されています。一般にはそれがスネフェル王のものと考えられていますが、頭蓋骨の内側に、古王国時代には行われていなかった処理が施されており、別人のものの可能性もあります。




ダハシュールの屈折ピラミッド (スネフェル王)

スネフェル王が建造した、3つめのピラミッドで、途中で傾斜角度が変わっている事から、「屈折ピラミッド」と呼ばれています。下部の傾斜は54度14分、上部の傾斜は42度59分です。下部の傾斜は、本来の崩れピラミッドの傾斜や、ギザの3大ピラミッドの傾斜に近いですし、上部の傾斜は赤ピラミッドのものに近いものです。メイドゥムのピラミッドが崩壊したため、途中で設計変更が加えられた結果であると言う人もいれば、最初からこの通りに設計されていた、と考える人もいます。また、途中でピラミッドの完成を急ぐ事態が生じたためと考える人もいます。ピラミッドの内部は、独立した2箇所の入り口と2つの玄室があり、もしかすると二人のファラオのために造られたとも考えられます(下部がフニ王とも考えられます)。とすると、2段の傾斜は、二人のものであるという事の象徴なのかも知れません。もし仮に、下部の傾斜のまますべてが造られていたら、高さ125メートルのピラミッドになっていたでしょう。



ギザの第1ピラミッド (クフ王)

古代エジプト史上、最も大きなピラミッドです。建設当時の高さは147m、底辺の一辺は230m、斜面勾配は51度50分です。その後、外側の化粧石が剥されて(盗まれた)しまったため、高さは10mほど低くなってしまっています。当時はすべての面が花崗岩の化粧石に覆われていて、光り輝くようであったと言われています。このピラミッドがクフ王のものであると最初に述べたのはヘロドトスです。彼は「歴史」の中で、クフ王について、ピラミッド建設のために民衆を強制的に働かせた残酷王として描いています。しかし、今日では、農業の行えないナイル川の氾濫期に、農民の失業対策になっていたと考えられており、いわば出稼ぎ工事のようなものだったのでしょう。長い間、第1ピラミッドがクフ王のものである証拠が見つかっていませんでしたが、1839年にイギリス人ハワード・ヴァイズにより、重量軽減の間にヒエログリフに囲まれたクフ王の名前が発見されました。
      クフ王のカルトゥーシュ
ピラミッド建設を指揮したのは、クフ王の宰相ヘムオンと考えられています。ヘロドトスによれば、建設には20年を要したそうです。石材は、主に石灰岩が用いられています。これは、ギザ付近で最も簡単に入手できる、石材の中では軽くて加工しやすい石材です。上に行くほど石の大きさは小さくなっていきます。使われた石材の数は230万個と言われています。王の間などの重要部分は花崗岩が使われており、これはアスワンの方から運ばれてきたものらしいです。建設当時、表面を覆っていた化粧石も花崗岩でした。
ピラミッドが「メル」と呼ばれていたことは述べましたが、一つ一つのピラミッドには固有に名前が付けられていて、第1ピラミッドは「アケト・クフ(クフの地平線)」と呼ばれていました。
現在のピラミッドに入るための観光用の入り口は、西暦830年にエジプトのカリフ(太守)、アル・マムーンが盗掘用に開けたもので、それが偶然本来の通路にぶつかり、現在女王の間や、王の間と言われている空間を見つけました。しかし、アル・マムーンは、ミイラも財宝も何一つ発見できませんでした。なお、本来の入り口は、地上17m、中心線より東に7.3mずれた所にあります。また、ピラミッドの隣には、太陽の船博物館があります。実際にピラミッドの南に埋設してあった船で、王は死後、太陽神となり船に乗り、昼は天空を、夜は地下世界を旅すると考えられており、そのため太陽の船と呼ばれています。現在発掘されたのは一艘ですが、もう一艘が付近に埋設されているのが確認されています。



ギザの第2ピラミッド (カフラー王)

クフ王の第1ピラミッドの隣にある、2番目に大きなピラミッドです。クフ王の息子、カフラー王により建造されたと考えられています。クフ王のピラミッドより標高が高い場所に立っているため、錯覚でクフ王のピラミッドよりも高く見えます。上部には化粧石が残っています。高さ136.5m、1辺の長さ210.5mあります。斜面勾配は53度10分あります。中には、棺の置かれた部屋が一つだけ発見されています。このピラミッドの東には、カフラー王の顔を模して造られたと言われている、スフィンクスがあります。スフィンクスは、石材を積んで造られたのではなく、元々あった丘を削って造られています。足元には、トトメス4世の夢の碑文があります。当時、スフィンクスは砂に埋もれており、トトメス4世が見た夢の中にスフィンクスが出てきて、砂を取り除いたら王にしてやる、と言ったそうです。その言葉通りにしたら、実際に王になれた、と碑文には書いてあります。スフィンクスとはギリシャ語ですが、古代エジプトでは、シェセプウと呼ばれています。ギザの大スフィンクスは特に「ホル・エム・アケト(地平線のホルス)」と呼ばれていました。

 カフラー王のピラミッドとスフィンクス



ギザの第3ピラミッド (メンカウラー王)
3つのピラミッドのうち、最も小さいのが、メンカウラー王のピラミッドです。高さは66.5m、1辺の長さ108.5m、傾斜角度は51度あります。玄室は、ピラミッドの中央の地下にあります。内部からはミイラの断片が発見されたのですが、鑑定の結果、きわめて新しい時代のものである事が明らかになり、メンカウラー王の物ではない事が判明しました。南側には小さな王妃のピラミッドが3基並んでいます。ピラミッドの周りには、化粧石の赤色花崗岩が散乱しています。メンカウラーのピラミッドが小さい理由は諸説ありますが、王権の衰退と言う説がもっとも正しいように思います。メンカウラー以後のピラミッドは、大きさも小さく作りも雑で、ほとんどが崩壊してしまっている事を考えると、うなずける説だと思います。