ファラオとは古代エジプトの王で「ペル・アア(大きな家)」という言葉が変化したものです。
長いエジプトの歴史上、何人ものファラオが登場しますが、遺跡や博物館などでよく目にするのは以下のファラオ達です。
どこの遺跡に行ってもこの人は登場します(笑)
古代エジプトの歴史中、最も偉大なファラオと言われています。すごい自己顕示欲の強い王で、他人の立像をちゃっかり自分の名前に書き換えたりしているものまであります。アブシンベル神殿には巨大な彼の座像があります。積極的な領土拡大政策を行っていて、西アジアの強国ヒッタイトと衝突します。この時の戦闘が「カデシュの戦い」と呼ばれている戦闘で、ラムセス2世はエジプトの大勝利と各地の遺跡に記していますが、実際は限りなく敗北に近い引き分けであったと、現在では考えられています。この戦闘で、ラムセス2世がチャリオット(2頭馬車)に乗りヒッタイトと戦う壁画が各地に残っていて、お土産物のデザインとしても多く使われています。彼の寵愛していた妃ネフェルタリの墓が王妃の谷にあります。旧約聖書に書かれた、モーゼがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した事件は、ラムセス2世の統治時代だと考えられていますが、その記録はエジプトには全く残っていません。彼のミイラはエジプト考古学博物館にあります。
ハワード・カーターによってツタンカーメンの墓が王家の谷から発見され、20世紀最大の発見と言われました。9歳で王位についた彼は、18歳の若さでこの世を去ります。王家の谷にある墓の中で、唯一盗掘を免れた彼の墓からの出土品は、カイロのエジプト考古学博物館に展示されていますが、彼のミイラだけは、今も王家の谷の墓の中で眠っています。なお、ツタンカーメンとはトゥト・アンク・アメンを縮めた言い方で、「アメン神の生きる姿」という意味ですが、実は最初はツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)という名前でした。ツタンカーメンの前ファラオ(あるいは前々ファラオ)のアケナテンは、アメン神ではなくアテン神を信仰していたためです。(アケナテンの項参照)
彼の妃はアンケセナーメンといい、二人の中睦まじい姿が、色々な彫刻に残っています(例:黄金の玉座の背もたれ)。エジプト考古学博物館で是非ご覧になってください。これらも土産物のデザインの定番です。ツタンカーメンのミイラが発見された時、そこには矢車菊の花が添えられてありました。恐らくはアンケセナーメンが夫の死を悲しんで添えたものなのでしょう。
積極的な領土拡大政策に乗り出したトトメス3世の統治時代、エジプトは最大の領土を獲得します。幼少の頃にトトメス3世は王位につきますが、その実権を義母であるハトシェプストに奪われてしまいます。即位から22年後に王権を取り戻すと、ハトシェプストの作った像などを次々と破壊しました。よほど恨みが溜まっていたのでしょう。カルナック神殿にはトトメス3世の祝祭殿があります。ラムセス2世と並ぶ偉大なファラオと言われています。
彼の即位していた時代、古代エジプトはその繁栄の絶頂期を迎えていました。その頃、王の権力を凌ぐまでになっていたアメン神官団を嫌い、それまでのルクソール(テーベ)東岸から西岸に王宮を移転させます。アメン神官団との対立は、次のファラオ、アメンへテプ4世(アケナテン)の時代に決定的になります。ルクソール西岸にある、メムノンの巨像は彼の像であると言われています。なお、欧米系の人達はアメンへテプのことをアメノフィスと呼んでいます。
アケナテン(アメンへテプ4世)はアメン神を中心にした多神教から、アテン神の一神教への宗教改革を行った事で有名です。当時、アメン神官団はファラオをも凌ぐほどの力を持っていました。それに対抗し、アメンへテプ4世は、アメン神の信仰を廃し、唯一の神であるアテンを信仰するようにお触れを出します。自らの名前も、アメンへテプからアケナテン(アク・エン・アテン:アテン神の栄光)に変え、首都もテーベ(現在のルクソール)から、アテンの地平線と言う意味のアケト・アテン(現在のテル・エル・アマルナ)に遷都します。しかし、このような急激な改革は民衆に受け入れられるはずも無く、日本の八百万の神と同じく、多神教の世界に長く身を置いていた人達が、突然に太陽光線を神格化した、実体の掴めないアテン神という神だけを崇拝するという行為にも無理がありました。宗教改革は失敗し、アケナテンは失意のうちに世を去ります。彼のミイラは現在でも発見されていません。アケナテンの死後、ツタンカーメンによって、元のアメン神崇拝の世の中に戻されました。アケナテンの即位していた時代の美術様式は、それまでの壁画などに見られる、型にはまった画一的形式ではなく、自由な表現を用いた写実的様式で、アマルナ様式と呼ばれています。トンデモ方面の人の中には、彼こそがモーゼである、とまで言う人もいますが、その真偽はともかく、彼の唱えた一神教という考えが、モーゼ等に影響しているという事は考えられなくも無い事です。彼の正妻ネフェル・ティティは美人であると有名です。
彼女は古代エジプト最初の女性ファラオで、トトメス3世の義母です。幼くして即位したトトメス3世の後見役という立場でしたが、後にファラオとなります。公式行事には男装して、付け髭を着けて出ていました。ルクソール西岸に葬祭殿を設けたり、カルナック神殿には彼女の2本のオベリスクがあります。そのうちの1本は横倒しになっています。彼女の像の多くは、後にトトメス3世によって壊されてしまいました。彼女の在位中は、領土拡大維持にあまり力を注がなかったため、それまでに勢力範囲に入れていた領土の多くを失ってしまいました。
2007年9月追記:
2007年6月、エジプト考古庁長官であるザヒ・ハワス氏により、王家の谷KV60墳墓に安置されていた女性のミイラが、ハトシェプスト女王であると鑑定されました。